どうも、ゴ~チョです。
最近、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』という本を読んでいます。
ざっくり説明すると、遊びを四つの要素に分類して分析してみようという本です。
まだ全部読み切ってはいないのですが、この四分類を使ってジャグリングルーチンにおける「ミス」の考え方について説明ができるのではないかと思い、この記事を書いています。
遊びの四分類からジャグリングを考えてみる
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』
- 作者: ロジェカイヨワ,多田道太郎,塚崎幹夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/04/05
- メディア: 文庫
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世に残る遊びから、人間の社会構造を読み解いてみようというのが主旨の著作です。
さて、カイヨワ氏は人間の遊びを大きく4つに分類しています。
(厳密にはそこにもう1軸加わり4×2分類だったりするのですが、ここでは省略...)
- アゴン(競争)・・・かけっこ、スポーツ競技、etc
- アレア(運)・・・じゃんけん、ルーレット、etc
- ミミクリ(模倣)・・・ごっこ遊び、演劇、etc
- イリンクス(眩暈)・・・ぶらんこ、サーカス、etc
アゴンは勝者と敗者、アレアは良い結果と悪い結果がはっきり分かれる遊びですね。
ミミクリにはごっこ遊びや仮面をかぶる遊び、高尚なものになると演劇も含まれます。演劇を「観る」行為もミミクリなのかという点にはまだ自分の中で腑に落ちる説明を見つけられていないのですが、何かを別の物として「見立てる」ことも、何かを別の物として「仕立てる」ことのうちに含まれるということであれば、観客として架空の物語に没入することもまたミミクリだと言えるのかなと解釈しています。没入が過ぎるとイリンクスの要素も帯びてきます。
イリンクスは基本的に自分の感覚器官をいじめる遊びが多いですね。ジェットコースターやそり滑り、バンジージャンプもこれに含まれます。ぐるぐるバットなんかもそう。
2つ以上の要素が絡まりあった遊びというものもあるようです。ただ、要素同士の相性があり、アゴンとアレアは結びつきやすく、ミミクリとイリンクスもまた相性がよいらしいです。
ジャグリングはどれに当てはまる?
さて、ジャグリングを「遊び」と捉える場合(このこと自体には異論はないとは思います)、
アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスのどれに当てはまるでしょうか。
ずるい話ではありますが、ジャグリングがどれに入るかは場面や立場によって変わってくるのではないかと僕は思います。
というのも、例えばサッカーひとつとっても立場や関わり方によって異なる遊びの要素が姿を現すからです。
サッカー選手にとってサッカーはアゴン(競争)です。(プロ選手となるともはや「遊び」の定義からも外れてしまいます)
観客にとっては熱狂を楽しんでいるとすればイリンクス(眩暈)、あるいはファンが選手との同一化にまで至っているならばミミクリ(模倣)の要素も含むことになるかと思います。そして、サッカーくじ購入者にとってはアレア(運)です。
ジャグリングにしてみても、コンテスタントにとってはアゴン、芸術作品のようにジャグリングで何かを表現したいのであればミミクリ、立場変わってサーカス的なスリルを味わいたい観客にとってはイリンクスの要素が強まるように思います。
つまり、ジャグリングは従事者の立場や状況によって、アゴン、ミミクリ、イリンクスの三つの側面を見せるということです。
各側面からみた「ミス」の重み
アゴン的視点ではミスの重みは他の競技者との相対的なものになります。
ようは「他の競技者より多いか少ないか」です。
一方で、ミミクリ的視点では一つの綻びでも模倣を破綻させかねないため、一つのミスでもそれは重い過ちとなります。
そしてイリンクス的視点では、ミスがその後の成功のスパイスになるのであればむしろプラスに働くこともあるでしょう。
ミミクリとイリンクスの対立
見世物としてのジャグリングでは、ミミクリ的視点とイリンクス的視点がよくぶつかっている印象があります。ミスに対する考え方が好対照だからでしょうか。
ここで突然マジックの話をしますが、マジックはミミクリの遊びの好例です。端的にいえば虚構を現実と思い込む/思い込ませる遊びなので。したがって、観客にそれとわかるミスを見せてしまうのはご法度です。一方、ジャグリングで大道芸的なことをした経験のある方は最後の大技をすんなり決めるより、1,2回ミスした後のほうが盛り上がったという体験が少なからずあるはずです。
先ほども少し触れたように二種以上の遊びが混合するときはミミクリとイリンクスが結びつきやすく、アゴンとアレアの相性が良いらしいのですが、ジャグリングにおいてはミミクリとイリンクスの価値観が対立しているというのは面白いですね(単に僕の解釈の仕方が間違っている可能性も大いにありますが)。
だから何なのかと言われても
とまあ、考えたことをつらつらと書き連ねたわけですが、だから何なのかと聞かれても今のところ答えはないです。ただ、大会などアゴン化(競技化)している時点で、ジャグリングの別側面に関してはおざなりにならざるをえない中でミミクリやイリンクスの要素めいた評価基準があったらそれは軋轢を生むよなあ、としみじみ思った次第です。いやはや難しい...
また、以前、マジシャンの方に「ジャグラーのミスの捉え方が軽すぎやしないか」と問われたことがありました。そのときは自分でもうまく答えられなかったのですが、遊びの四分類に照らしておそらくそういうことではないかと思える結論を得られました。
『遊びと人間』に関しては、ピントクル読書会にて僕よりも賢い方々にもっと掘り下げて読んでもらいたいなあと思った次第です。
ではまた!