バレンタイン?何それおいしいの?ゴ~チョです。
今回はまた趣向を変えて、
無理矢理ジャグラー視点で解釈したら、という形で書籍を紹介します。
世阿弥『風姿花伝』
観阿弥・世阿弥とセットで覚えましたよね。歴史の時間に。
父の観阿弥が芸能としての能楽を大成させて、
子の世阿弥がそれを書物にまとめています。
『風姿花伝』はもともと一子相伝の秘蔵の教えだったようです。
能もジャグリングも、広く広く意味をとればどちらも芸の道と言えるでしょう。
口語訳版ではありますが、前々から興味のあった『風姿花伝』を読んでみました。
その中から、ジャグリングにも通じていそうな部分を抜粋していきます。
観客には常に「新鮮さ」を与えなさい
著者である世阿弥は能が観客に感動を与える瞬間を「花」に例えています。
「秘すれば花」
これは『風姿花伝』の中に出てくる有名なフレーズですね。
そもそもなぜ花にたとえるのかを世阿弥は別紙口伝*1にて
こう述べています。
そもそも花というのは、あらゆる草木において、四季の折節で咲くものです。そのときそのときでつねに新鮮な感動を呼ぶから、私たちは花を愛するのだと思います。
猿楽も、人の心に新鮮な感動を引き起こすものだから、やはり「面白い」という心を引き起こすのです。花を愛する気持ちと、面白いという感情と、新鮮な感動の三つは、すべて同じ心から発するものでしょう。
つまり、能で大事にされる「花」とは「観る人に新鮮な感動を与えること」
だと言えるでしょう。
ベテランの役者がときにルーキーに負けることがあるのも
上手な役者の同じ演目でも二回目は魅力が劣るのも
ひとえに「花=新鮮な感動」の違いによるものだと世阿弥は述べています。
前述の「秘すれば花」の教えも
新鮮な感動を与えるためには自分の手の内を極力明かさないようにするべし。
ということらしいです。
世阿弥の「秘すれば花」は筋金入りで、
何か隠し持っていることすら相手に悟られてはいけないとのこと。
(そんな彼が、秘伝書が広く出版されていることを知ったらどうリアクションするのでしょう...)
よくJJFチャンピオンシップの予選落ちルーチンをYoutubeにアップしたり
フリーパフォーマンスで披露したりする人がいますが
次回に備えて極力露出を控えるのも、一つの手段ではないでしょうか。
「初心忘るべからず」の意味は実はもっと深い
「初心忘るべからず」
これも『風姿花伝』由来の有名な言葉ですね。
現代ではよく「物事を始めた当初の新鮮な気持ちを忘れないように取り組むこと」
という意味で使われますが、本家本元の言いたいこととは少し違うようです。
「初心を忘れるな」とは「常に未熟さを自覚せよ」ということであり、
同時に、各年代で身につけた芸の当初の感覚を忘れずに覚えておき、
たとえ今の自分が五十代でも、十代の芸、二十代の芸、三十代の芸...
といったようにいつでも引き出せるようにして己の芸の幅を広げよ、
ということを述べているのです。
演目を成功させるコツ
会場に集まった観客の方々が、どれだけ気分を盛り上げているか?遅れたりはしていないか?ということをまず考えてみることが、能の道に長く携わった人間としては、その能の出来・不出来を予測する、一番の判断材料になるのです。
演目を成功させるには、まず観客の様子を見よ
と、世阿弥は説きます。
全てはジャグリングに応用できないかもしれませんが、
以下が世阿弥のアイディアの一部です。
- 客席がざわざわしているときは静まってくるのを待ち、今か今かと観客の集中が高まったところで登場する。
- 静まらないうちに演目を始めなければならないときは、いつもより声を張り、動作を大げさにすることで全員の心を演目に集中させる。
- 昼の公演では後半に盛り上がりが来るようにする。
- 夜の公演では気分が陰鬱になりがちなので明るい演目を最初に持ってくる。
競演で相手に勝つには
能の隆盛当時は、「立合い」といって
他の一座と能の“演じ比べ”をさせることがあったようです。
ジャグリングでいうところの“コンペティション”のようなものでしょうか。
世阿弥はこの「立合い」で相手に勝つ方法も述べています。
まず立合いで勝つためには、演じられる能の数を多数用意し、対戦相手の演じる能とまったく種類の異なった能をぶつけられるようにしておくといいでしょう。…(中略)…
相手方が華やかな能を演じれば、こちらは静かに、雰囲気を変えて、観客の方々に固唾をのませるような場面を含んだ能を披露すればいいのです。
このようにして相手の猿楽と違う作品を臨機応変に提示すれば、どんなに相手の猿楽がよかったとしても、おいそれと負けることはありません。
新鮮な感動こそが「花」としていた世阿弥だけに、
相手との演目かぶりはまず避けるべき事項だったようです。
相手と同じ系統の技で実力の差を見せつけるのもいいですが
実力が拮抗しているようなら趣向を変えて観客や審査員の目をひくのも
コンペティションでは一つの戦略ですよね。
できないからと言って遠ざけない
どんな人でも、ときには凝り固まった常識から、ときには自分にはできないという理由から、一方の芸風ばかりに一途になります。…(中略)…
ただ自分にできないことを、狭い了見で遠ざけているだけなのです。
できないことがそのままになってしまうと、一時には名声を獲得したとしても、長続きする花がなくなり、天下に認められ続けることはできません。
その優れた腕で天下に認められることのできる人は、あらゆる種類の演技ができるからこそ、やはり面白いと思われるのです。
...耳が痛い話ですね。
理想ではあるものの、実際には厳しい道のりです。
この話を読んで思い出したのは、JJF2008での大回転古谷さんのルーチンです。
この年の前後からシガー4個以上の技が爆発的に増え、
シガー3個で大会にエントリーする者がほとんどいなくなった今でも
なおこのルーチンが色褪せないのは、
当時開拓されていたジャンルの技がかなりの完成度で満遍なく加味されている
ということによるものではないかと思います。
実際、JJFチャンピオンシップでは技の新規性に加えて多様性も見られているらしいですね。
いつも目の前の人に愛される芸をすること
「自分の演技はマニアックだから素人には理解されない。」
そんなことをのたまう人を見たことはありませんか?
世阿弥はいわゆる「目の利かない観客」への演技についてこう言っています。
たとえば上手な役者でも、その演技が目利きでない観客の好みに合うのは、難しいことがあります。
…(中略)…
しかし能の道を究め、演技の工夫もできる役者であれば、目の利かない観客たちにも「面白い」と思えるような演技ができるはずなのです。
さらに世阿弥は続けます。
秘儀にはこのようにあります。
「そもそも芸能というものは、人々の心を和らげ、身分の上下を越えて皆が一体となれる感動を生み出せるものである。
だからこそ芸能は、人々の幸福を増長し、その寿命までを延ばすことができる。まさにこの道の究極は、いつまでも幸せで、いつまでも健康な人生を人々に提供するものなのだ」
職業として芸能を見せていた世阿弥と
趣味でやっている人もいるジャグラーとを一緒にするな
といった意見も聞こえてきそうです。
全くそのとおりなのですが、
僕個人としては五代雄介(過去記事参照)に憧れてジャグリングを始めたクチなので
世阿弥のこの考えはとても共感できます。
ジャグリングよ大衆のためにあれ。
少なくとも、承認欲求を満たしたいなら最低限の工夫は必要ですよね。
ビジネス書として読む人もいるらしい
『風姿花伝』は「いかにお客様に喜ばれる能をするか」という面を追求した
最古のビジネス本として位置付けることもあるようです。
また、各年齢で覚えておくべきこと、訓練の仕方なども載っていて
教育本として評価される側面もあったりします。
今回紹介したような口語訳版の書籍も複数出ているので
一度読んでみると読む人により様々な発見があり面白いかもしれません。
ではまた!
*1:もともと別本ですがこの書籍では一緒にまとめています