どうも、ゴ~チョです。
ジャグラーは職人気質というか口下手というか、ブログ書きの人があまりいないですね。その中でも山本健一さんとはほぼほぼ同年代でジャグリングを始めた時期も重なっているという認識。僭越ながら勝手に親近感を抱いていました。
その山本さんが最近投稿した記事がこちらです。
ジャグラーズイズデッドについて
岡田斗司夫氏の「オタクはすでに死んでいる」になぞらえて、ジャグラーも気質的に類似の過程をたどっているのではないかとする説を展開しています。
僕は恥ずかしながらこちらの新書を読んだことがなく(それどころかこの記事で初めて岡田氏の存在を知ったほど)、その辺の事情に疎いのですが、新書の元となった講演の内容が本人名義でYoutubeにあったので拝見しました。
僕なりの解釈で、まとめるとこうなります。
第1世代(貴族意識)第2世代(エリート意識)オタク達は、ミリタリー、鉄道、漫画、アニメ等々ジャンルを超えて「自分の好きなことを自分の意思で選び取る精神力と知性をもった者たち」という緩やかな共同概念を持っていた。しかし一部のオタク産業(アニメや漫画)の爆発的な拡大とともに生まれた第3世代(自意識)オタクは、「みんなは関係なく自ら選んだ」という一種の矜持を持ち合わせていない。そのうえ、オタクであることにアイデンティティを見出すために互いの差異ばかりを気にしており、従来までの共同概念は崩れつつある。
そして、岡田氏が「オタク」崩壊を感じたきっかけとして挙げられた2人の若者世代とのエピソード(推しの声優について熱く語るが、声優を呼ぶイベントを自ら企画することについては及び腰な青年。オタクをカミングアウトする前から迫害を恐れ、周囲に態度を変えるよう要求する少年。)から、
"いっぱしに主張はするが、自ら行動を起こさず世間が動くことを期待している"
という特徴も、供給の拡大により専ら消費側にまわる第3世代の、旧世代との差としてとらえることができるでしょう。
岡田氏のこの主張はある側面では第1世代第2世代がそのとき抱いていた違和感をうまく代弁していたのではないかなと思います(あくまで引用元の内容確認をしたかっただけで本筋とは異なるため、またこの議論について語る言葉を持ち合わせていないのでこれ以上の言及は慎みます)。
ただ、そこから展開された山本さんの「ジャグラーズイズデッド」理論を読んで最初に抱いた印象は「モヤッ」でした。この「モヤッ」の原因について、もう少し掘り下げてみたいと思います。僕としては山本さんと同じ世代だと思っているので、半分は生きてるが半分死んでる"ゾンビ"の言い分ということで。
死んだ?いや、増殖?
まず、「○○が死んだ」というためには、○○がどのようなものであるのかを確認する必要があります。
では、「ジャグラー」の定義はどうでしょうか。
ここで辞書的な定義を持ち出しても山本さんの意図とはずれる気がします。
記事から推察するに、
ジャグリングを趣味・特技とし、かつ
- 世の流行りものからコンセプトを借りずにジャグリングの魅力を語る作品をつくり演じる人
- コンテンツを享受するのみならず、自ら行動して好きなものを共有・発信する気概を持つ人
といったところでしょうか。
コンセプトを借りたのか、席を譲ったのか
...コンセプト...流行りもの以外をもってくる場合、何を持ってくれば正解なのでしょうか。「借りる」ということは、ジャグリング自体がコンセプトであることが本来だということかもしれません。ここで少し世代間の違いが見えてきました。これは、ジャグリングを手段とみるか目的とみるかの違いではないでしょうか。
ジャグリングを見せたい、ジャグリングで見せたい
恐らく2011年JJFチャンピオンシップの北村慎太郎さん(それ以前にも予兆はあったのかもしれませんが)あたりをきっかけに、歌詞の世界観をジャグリングで表現できたときのカタルシスみたいなものにジャグラーが気づき始めたのだと思います。"ジャグリングをみせるために曲をかける"というようにあくまで目的、コンテンツだったジャグリングが、"曲の世界観を表現するためにジャグリングを用いる"といった手段としてのジャグリング、ある種のメディア(媒介)としてのジャグリングと捉える選択肢を得ました。ジャグリングが居座っていた「コンセプト」の席は空になり、そこには「恋ダンスの和気あいあい感」や「RADWIMPSの世界観」なども入れられるようになります。
ジャグリング"を"見せる「ジャグラー」がいなくなり、ジャグリング"で"見せる人が台頭してきた。ジャグリングをコンセプトとする、ジャグリングのためのジャグリングの作品はつくられなくなった。という論旨でいけば、なるほど「ジャグラー」は死んだのかもしれません。いや、本当にそうでしょうか。
"で"しか作らなくなるのか
というのも、"で"見せる人が急増したとしても、"を"見せる人が絶滅するとは僕には到底思えないからです。コンセプトとしてのジャグリングも、メディアとしてのジャグリングも、どちらも甲乙つけがたいジャグリングの魅力です。恋ダンスを踊ったPatioの学生たちも、RADメドレーに作品を送ったジャグラーたちも、ジャグリング"を"見せる作品は一切つくらない、ということはないはずです(根拠を提示できていないので主張として弱いですが...)。
「俺はそんな大衆に媚びるような作品はつくらねぇ!」という職人気質の人も大事なのだけど、ポップカルチャーと交わった作品をつくったジャグラーに「お前らはジャグラーとして死んでる!」というのは、むしろ「オタク」という共同概念を死に追いやった第3世代オタクの不寛容さに通じるのではないか。と考えてしまいます。
発信者の気概について
コンテンツを享受するのみならず、自ら行動して好きなものを共有・発信する気概を持つ人
このような人種の減少は、四国の4JF終了からもひしひしと感じたことでした。
大阪でも、練習会主催者の世代交代がうまくいっていなかったり、WJDin大阪(6月のジャグリングイベント)の学生スタッフが集まらなかったりといった話をちらほら聞きます(近畿の場合は社会人のおじさん達がパワフルな傾向もありますが)。イベントが碌にないところからつくった世代と、このコミュニティに来たときから既にあった世代の熱量の差なのでしょうか。あるいは、年上の世代が気づいていないだけで、今の学生には何か別の方向に熱量を注ぐ先を求めているのかもしれません。
...返事がない。ただの屍のようだ?
発信者側としての世代間の熱量の差に寂しさを覚えることに関しては共感する部分も大きいのですが、恋ダンスやRADメドレーを捕まえて「ジャグラーは死んだ」とするのは、ジャグリングの可能性を狭め、結果として「ジャグラー」の首を絞めることになるのではないかと抵抗を感じます。「モヤッ」の原因はここだと思います。
RADメドレーなんかは取り組みとして単純に面白いと思ったんですよね。主催者がもともとRADWIMPS好きで、映画の曲ヒットの機に乗じたのか偶然なのか不明ですが、『前前前世』縛りでなくRADのマイナーな曲も使用してたみたいなので。
大変長らくお待たせしました!
— RADルーティンメドレー企画! (@RADxJUGGLING) 2017年3月15日
RADジャグリングメドレー、vol.1です!!
パスワードは「RADxJUGGLING」です。お楽しみください!!https://t.co/mQDNTThx4m
Patioの恋ダンスは、コンテンツの選択自体は間違いではなく、ジャグリング普及の一環にもなりうる動画なんじゃないかと思います。OBとして厳しいこと言うと、やるなら絵コンテ練って原典への愛とジャグラーならではのアレンジをもっと込めろよとは思いました(そう、吉本新喜劇ver.のように)。
ただ一番寂しいのは山本さんのこの記事に対して、当の「第三世代」達からのレスポンスが今のところ見当たらないところですね。見つけていないのか、関心がないのか、返す言葉をもたないのか...あんたら、「死んだ」言われてまっせ!
この記事に対しても、ご意見ご感想お待ちしています。
ではまた!